Thursday, December 17, 2015

『敷居の住人』は本当に「成長しない物語」なのか? 志村貴子とその周辺で

 過去作品の新装版や画集を含めるとはいえ、ひとりの作家の手によるものがわずか半年のあいだに8冊(!)も刊行されるという、なんとまあ恐ろしい企画が今年の上半期に実現してしまいました。その名もド直球、「志村貴子まつり2015」。書店の新刊&特設コーナーでの露出を考えると、このフェアは大盛況のうちに終わったように思います。実際、以前からのファンも含めて、この期間に書店で志村貴子の作品を手にとった方も多いのではないでしょうか。『放浪息子』や『青い花』で知られるように、思春期の悩みやジェンダーを扱うマンガ作品を多数発表する傍ら、アニメ『アルドノア・ゼロ』のキャラ原案を務め、雑誌では『ユリイカ』や『MdN』の表紙イラストを手がけるなど、近年ますます精力的に活躍の場を広げている作家・志村貴子。つい先日には『淡島百景』が第19回文化庁メディア芸術祭・優秀賞を受賞し話題になりました。そんな彼女の原点に迫るべく、今回のエントリではその初連載作品『敷居の住人』について語ってみたいと思います。

『敷居の住人』の魅力


刺星(以下、刺):何度読み返したか分からないし、この作品について語りだしたらキリがないけど……。

比良野アンジェリカ(以下、比):ついに来たね。お互い、青春のバイブルじゃない?

刺:なつかしさに回収されない良さがあるよね。毎年のように読み返す作品のひとつ。
簡単にまとめてしまうと、一線を越えるかというところでなかなか決心がつかず、ようやく決心して踏み出しても結局はまたフリダシに戻ってきてしまう、そんな「敷居の住人」たちの物語なんだけど。

比:一線を越えることと、「敷居」をまたぐイメージが重ね合わされているワケだね。ジャンルとしては、思春期の少年少女たちが繰り広げるラブコメ群像劇といったところか。

刺:「敷居」を境界として見るなら、子どもと大人の「あいだ」を彷徨うひとたちのハナシといっても良い。

比:この作品の魅力についてはどう?

刺:どういうふうに捉えれば良いのか……。ぼくにとっては、「わからない」ことがどれほど魅力的かを教えてくれた最初の作品ということになるかもしれない。

比:キャラがどうしてこういう行動をとるのか理解できない、みたいなことだよね。とらえどころのなさというか、「感情移入」を寄せつけないところはあると思う。たとえば主人公の“ミドリちゃん”こと千暁はキクチナナコをプールに突き飛ばしたり【図1】、近藤ゆかを蹴り倒したりするんだけど【図2】、そういう衝動ってリクツで説明できるものじゃない。



【図1】 5巻、vol.47、p.178


【図2】 4巻、vol.33、p.62
刺:言われてみると、たしかにそういう「わからなさ」もあったね。……なんというか、暴力的(性)衝動の唐突さというかね。感覚としてはわかるときもあるんだけど。
主人公が何事に対しても反抗的な態度をとる理由もリクツではわからなくて、それについては象徴的なシーンがあったはず。

比:千暁の髪が緑色なのを教師に咎められた千暁の母親が、毛染めクリームを買ってきて千暁に黒染めを強いるんだけど、千暁は最後まで抵抗して結局クリームが台無しになるというシーン(注1)。

刺:母親が千暁に「たかだか髪の色じゃない/どうしてそうやって意味もなく逆らうのよ」と問いかけると、千暁は「「意味なく」はないのだよ 母ちゃん/わからないけど/そう思う」【図3】なんてね。「意味がある」と積極的に肯定できないところが彼らしくもあり。

比:本人がわからないんだから仕方ないね。変に斜に構えていて情緒不安定なキャラがなにをするかわからないというエキサイティング体験。いま話したような「わからない」という感覚が『敷居の住人』の大きな魅力のひとつではないでしょーか。

【図3】 3巻、vol.26、p.140
刺:納得です。「わからない」ことの魅力は、志村貴子が影響を公言している尾崎翠の小説、『第七官界彷徨』にも通ずるものがあるのでは。

比:何年前に読んだっけな。。。たしかにヘンな小説だった。そのヘンさが何ともいえない味になってた気がする。これは小説、映画、漫画、音楽なんでも言えることだけど、「よくわからないけど、なんか面白い」っていうのが、自分にとってすごく大切なモノになると思う。

刺:そのつど手探りでチューニングやポジションを変えなきゃいけないワケだからね。それまでの姿勢では鳴らしきれない音を鳴らすために、そこで鳴っているはずの音に耳をすませるために、別のやりかた、別の身振りを必要とするというか。

比:急に音の語彙になったね。突き詰めればデレク・ベイリー? でも『敷居の住人』がすごいのは、それでいて難解な印象を与えないこと。手もとの単行本を見ると、だいたい1年に1刷くらいのペースで増刷をかけられてる。そのあと新装版にもなったし、「隠れた名作」とは言い切れない数のファンがいそう

【図4】 2巻、vol.19、p.208
刺:まあ読んでないからといってどうということもないけど。
『第七官界彷徨』の話を続ければ、登場人物たちが共有している失恋の哀感、及びそれと表裏一体のユーモラスな彼らの言動の魅力もさることながら、どうしてそういう行動をとるのか理解できないというのもあの作品の見どころだったはず。うら若き少女の繊細な心の揺れ動きを感覚として理解できるかどうかは読み手によるけれど、それについては『敷居の住人』で近藤ゆかが言い放つように、「少女の複雑な心情」を「単純な表現でひとくくりに」するんじゃないよと【図4】。『敷居の住人』にしても『第七官界彷徨』にしても、感度の低いレッテル貼りをゆるさないだけの心の機微が作品のなかに認められると思う。

比:そのレッテル貼りっていうのは、下手するとこういうレビュー感想の場でも起こりがちな、「解釈」とか「理解」とか呼ばれるあいつら乱暴者のやり口にも似ていると思うね。もちろんときには自分の美学を賭けて断言することも必要だけど、無意識にやってるのとは全然別だからさ。もし国語の授業でこの作品を扱いながら「このときの登場人物の心情を20字で書きましょう」なんて言った教師は、近藤ゆかに殴られるね。わたしはその教師を羽交い絞めにして血が流れるままにする。。。いや、話がそれたけど、つまり『敷居の住人』の人物。。。もしくは漫画じたい。。。が抗おうとしているのはそういう簡略化であって。内容面でも構造面でも、その抵抗の仕方を青春と名づけてもいいはず。だからこそ多くの読者の共感というか共鳴を誘ったんだろうし、現にわたしもね。『第七官界彷徨』を読んで同じ感想を抱くひとがいてもおかしくない。

刺:いやーわかるよ、安易な構図に回収するのは避けたい……だからぼくとしては「成長しない物語」なんていうタグ付けにも賛同できないというのが正直なところだけど、それはあとで。
せっかく名前を出したんだからもうちょっと拾うと、『第七官界彷徨』には決定的に「わからない」文章があって、具体的には主人公の町子とそのいとこ・三五郎が昼食をとるために外出する場面、「玄関をしめに行った三五郎は、私の草履をとってきて窓から放りだし、つづいて私を窓から放りだした」(注2)という一文なんだけど。

比:ふたりして玄関から出ろよ、っていうね(笑)。草履と同じように〈私〉を扱うのもオモシロイ。

刺:エッジの効いたこの一文の「わからなさ」とは異質であるにしても、『敷居の住人』においてなぜこういう行動をとるのかわからないという意味では、やはり近藤ゆかの存在が大きいのかな。

比:主人公に蹴り飛ばされた女の子ね。ただこの子も、キックに負けず劣らずエキセントリックな行動とってるよ。まず、主人公と付き合うんだけど、それでも本当に好きなのかどうなのかわからない。ストーカーまがいの知らない男に歩み寄ったりとかね。「本当に好き」ということが何なのかじたい、この漫画を読むと考えさせられることでもあるけど。つまり、そのハッキリしなさ、誰が誰を好きになる単純なラブコメ構造と違うオボツカナサが、さっきから言ってる「わからなさ」でもあるし、魅力である。

刺:なるほどね。じつはぼくが言おうとしていた「わからなさ」というのは、いま言ってくれたこととはちがうベクトルの話だったんだけど、聞いているうちに妙に納得してしまった(笑)。
といっても、ぼくが話そうとしていた「わからなさ」についてもほとんど言われてしまったようなもので、「よくわからないけど、なんか面白い」っていう評言がまさにそれなんだよね。そういう体験をするたび、この作品が面白く感じられるのはなぜなのか、どういうプロセスで生み出されているのか、逆算せずにはいられない……。それは逆算というより、あとづけの力学と呼ぶべきかもしれないけど。

比:趣味でおはなしを作ってる自分からすると、読者の算術的な読みを信頼するのは、書き手にとって大事なことだとも思う。極端な話、メチャクチャてきとうに書いた、支離滅裂、変則撃鉄無差別爆撃みたいな作品でも、読者はおのおの意味を見出だしてしまうからさ。ま、そんなてきとうな作品に価値はないけど。懇切丁寧に流れを追って、こっちで消化する余地もないようなモノを目の当たりにすると、そんなことを考えちゃったりしてね。これも「好み」の範疇なのかしら。

刺:そんなもの読むくらいなら打ち切りマンガのその後の展開を考えたいね。
じっさいには作品をつくらない読み手であっても、描く(書く)ように読むことは程度の差こそあれ可能なのだし、読むためのというよりは描くための手引きになるようなセオリーやテクニックを見つけたいものですね。
まあ動機はそのへんにして。キャラの言動の説明がつかないこと以外に、『敷居の住人』の魅力としてほかになにかありますか?

比:最初にこの作品を読んだときは、コマ割りやキャラの言動のトガり具合だったり、服を脱いでるでもないのにやたら扇情的なシーンだったり、そういうところに惹かれた記憶がある。あとはやっぱりリズムやテンポの良さだよね。

刺:うんうん。コマ構成やカッティング、モノローグなどの技法や「文法」のゆたかな結実としてそれはあるわけだけど、『敷居の住人』の達成を考える際にそこは外せないんじゃないか。それについてはあとで詳しく話したいと思います。

成長か否か


比:さてさて、主題めいたハナシをすれば、この作品に関して志村貴子は「成長しない」物語であることをハッキリ明言しているワケだけど(注3)。

刺:そう一概には言いきれない気もする。たしかに、それこそ少年マンガのような目に見えるかたちでの変化は描かれていないように思えるけど、そこは読者の受け取りかた次第じゃないかな。

比:というと?

刺:たとえば兼田センセイ。最初なんか職員室で求人誌を読みながら、教師になったことを「魔がさした」なんて言ってのけるヤツだったし、さらにはその場面のナレーションで「一生 このまんまであろう 兼田」と言及されてもいるんだけど(注4)、読み返してみると意外とフツーに「先生」やってるんだよね。
千暁が高校に進学しないと言い出したとき、兼田センセイの「なにかのきっかけにはなるかもしれない」という助言によって千暁は少しだけ前進する【図5】し、キクチナナコが同級生からの手紙で落ち込んでいるときも、センセイの慰めのおかげで前を向けるようになるワケじゃない(注5)? 初登場のときから「先生」らしくないキャラとして描かれていたはずが、こういう一面を見せられると……

比:「兼田センセイ!」ってカンジだね。それは成長というよりはギャップなのかもしれないけど、実際に兼田センセイは巻を追うごとに落ち着いてくるからね。

【図5】 2巻、vol.16、p.146

刺:別の例を挙げると、死んだとされていた千暁の父親も(離婚した母親が千暁に死んだと嘘をついていた)、当初は赤のロン毛で仕事もせずにブラついていたのが、千暁と再会してからは髪を短くして仕事も始める。そのあとも、千暁に対して父親らしいことをしようとしてもどこか「らしさ」が抜けきらなかったんだけれども……

比:箱根で千暁に浴びせたゲンコツ(注6)。あれが初めて「父親」を示す一撃だった。

刺:徐々に先生ぶりが板についてくる兼田や、親として自然な行動がとれるようになる千暁の父親。

比:それもまたある意味では成長といえるのかもしれない。変わっていないように見えても時が経つにつれひとはみな変わっていくというかさ。

刺:いやー、良いこと言いますね。
千暁とキクチナナコに関しても、繰り返しのなかに差異を見出すか、それとも繰り返しの反復にやるせなさを感じるかだと思うんですよ。

比:千暁が髪を緑に戻したり、キクチナナコが手紙や兼田センセイのことをどうも吹っ切れていなかったり……。堂々巡りに見えるけど、じつはその繰り返しのなかに差異の萌芽を見ることもできるわけで。

刺:最初はウジウジ悩んだあげく逃げてばかりだったキクチナナコが、むーちゃん(村上宗春)とお試しで付き合ってみたあと、手紙や兼田センセイの件で自ら「試練」を受けに行こうとする。アイドルになることをすぐにあきらめた千暁も、アイドルを目指す圭吾くんの覚悟やその後の活躍に触発されてか、あるいはキクチナナコに言われるがままに(とはいえ)、ぬいぐるみづくりのほうは続けていて。

比:何度も失敗を繰り返すというのは、何度も挑戦していることの裏返しでもあるからね。

刺:“Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.”「ずっとためされ。ずっと失敗され。構わない。またためす。また失敗する。もっと良く失敗する。」(注7)。サミュエル・ベケットの有名な警句ですが、もっとくだいて訳せば「何度もやってみた。何度も失敗した。問題ない。またやってみる。また失敗する。もっとうまく失敗する。」といったところでしょうか。
キクチナナコや千暁にはここまでのバイタリティはないし、なにか明確な目的意識があるワケでもないけど、彼女たちの「失敗」がただの失敗ではないことを教えてくれる一節だと思います。

比:ベケットのその言葉は初めて聞いたけど、素晴らしいね。人生訓にしようかな。

刺:前に踏み出してみてもまたフリダシに戻ってしまうかもしれない、同じ失敗を繰り返してしまうかもしれない、そんな不安や諦めを胸に抱えながら、それでもまた再び決心して踏み出してみること。自分の本心はどうなのか、自分のやりたいことはなにか、自分でもよく分からないが、とにかくもがいてみること。その結果として彼女たちのうちになんらかの変化が生じるのであれば、ビルドゥングス・ロマンのそれとは異なるけれど、そこにある種の「成長」を見出せるのではないか。……と、このように単純化してしまうと、屈折して澱のようにたまった情念の行き場のなさ、みたいなものを取り逃がしてしまう気もするけれどね。

比:たしかに成長とは言えるけど、それだと取りこぼすことがらがありそうって感じ? キャラクターが具体的に成長をこころざしてなくても、もがくなかで結果的に成長していく、ということが読者(作者?)には伝わる。。。それってなかなか描きにくいバランスだと思うけど、ここで成功してるんだよね。

刺:「なにか具体的な目的があって努力の成果が出た」式の成長ではないにしても、成長の意志は感じとれるし、彼らなりの前進をそこに認めることはできる。ただ、それは反発や抵抗のムーブメントや揺り返しとセットですよということ。留保や逆接ありきでしか語れない。
もしこの作品の魅力を語る際に言いよどむことがあるとすれば、キャラのアクションの動機が不明瞭であることに加えて、ハッキリ「成長」と言いきることができない「煮え切らなさ」に原因があると思う。逆にそこが魅力的に感じられるというひとも多いだろうけど、それだと聞き手が納得してくれるかどうか……。なので個人的には、この作品の持っているテンポの良さだったり、カッティングやループの手法について具体的に論じてみたいと思っています。

比:眼に見えるものを具体的に論じるのは大事ですね。


未然のカッティング、残響としてのコトバ


刺:リズムについては、独白の連続や会話の応酬のなかにそれを感じる、と言うとどうにも感覚的な物言いになってしまうんですが、いずれにせよ説明過多でないことは確かで。

比:セリフにしてもモノローグにしても、コトバのイメージが作品やキャラのイメージと直結しているからなのかな、翻訳されてないコトバのポエジーがあるよね。

刺:ナマのコトバというかね。そういうのはありますね。あとはセリフやモノローグについてどう考えるか。

比:モノローグが作品全体を支えている気はする。物量的な意味と。。。あと何て言うのかな、ある種の漫画において物語の補強やキャラクターの描写にモノローグが費やされるのに対して。。。もちろんこの作品にもそういう面はあるけど。。。コトバそのものだけで楽しめるというか、モノローグの連鎖に運動神経を感じる。これはちょっと抽象的すぎる言い方だろうな()

刺:内語の自虐や毒づき、セリフ回し、セリフとモノローグの交差、絵やコマの反復的使用、そのいたるところにリズムの生まれる兆しがあるのでは。コトバの運用だけではなく。

比:顔のクロースアップの連続とか、頻出する「足」のショットもそうか。

刺:ですね。コトバについても、割合でいうと、新装版の4巻ぐらいまではやたらとモノローグの饒舌さが目立っていたのが、目安としてだいたい5巻以降はめっきりモノローグが減る傾向にあるというのがひとつ(vol.53を除く)。たとえば4巻のvol.3132なんかはモノローグが画面を支配しているのに対して、6巻のvol.55では(途中にナレーションが入るものの)モノローグが登場するのは最後のページ(p.172)だけで、それどころかもはやセリフも最小限にとどめたシーンさえある【図6】


【図6】  6巻、vol.55、pp.150-151

比:近作にも見られる志村貴子のミニマリズム(!)ってワケだね。それがテンポの良さにつながる。再読して思ったんだけど、この作品、意外とダラダラしてないよね。

刺:それはカッティングのワザによるところが大きいでしょうね。編集として、間延びするまえにさっさと別のシーンに移行しちゃう。ときには「なんでそこをカットするの?」ってくらいにスパッと。縮約と減算からなる換喩の力学とでもいうか、そういうのはあると思う。

比:なんでそこを描かないの、って場面はたしかにあったね。箱根でキクチナナコが千暁パパの布団にもぐりこもうとするところ【図7】とか、そのあとどーなったの!? 


【図7】 5巻、vol.46、p.155


刺:どうにかなっていても困るけど(笑)。まあとにかく読者としては、そういう描き方をされると、そこでいちどカットされたシーンがあとで描かれるんじゃないか、みたいな期待をしてしまいますよね。

比:ほかにもけっこうあったなあ。くるみちゃんと千暁が二人で歩いているところにたまたまくるみちゃんのお姉さんが通りかかって、くるみちゃんが千暁を好きなことをバラしてしまったときも、千暁の反応は描かれないまま進行してしまう。あとは千暁とその父親が1週間もどこかに旅行してて、日焼けして帰ってきたみたいなシーンがあったけど、旅行中のエピソードどころか、どこへ行ったかすら描かれなかったり。

刺:キクチナナコの過去にしても詳細に語られないし。その頻度からして確信犯でやってるはず。読んでいる側にしてみれば、このモンタージュによって、描かれないことへの失望とこのさき描かれるかもしれないという期待とをほぼ同時に味わうことになる。言い換えるとつまり、出来事の帰結をとらえる寸前で別の場面へと移行することによって、回収されないままカットされた事柄が伏流として機能していく。具体例として挙がった事柄は、たいてい最後まで描かれることはないんだけど、だとすればなぜそれらが伏流として働くのか。それはおそらく、失望と期待の地平を行き来する作品空間に身体がならされてしまっているからで。キャラの成長が「留保や逆接ありきでしか語れない」というのもその揺り返しのうちにあるからなんだけど。形式と内容の相互フィードバック現象っていうか、とにかくそこにはまちがいなく相乗効果(シナジー)があって、それもまたこの作品の魅力に間違いなくつながっている。

比:揺り返しというのは、内容にあたる部分でいえば、安達とむーちゃんの関係に象徴されているようなことだよね。付き合いだしてうまくいっているように見えたふたりがいちどは破局して、そのあとまたヨリが戻るかと思えば戻らなかったときもあったんだけど、なんやかんやでやっぱり復縁しちゃって。千暁とキクチナナコにしても、うまくいく保証はないけど、必ず失敗するとも言えない。それこそ志村貴子サンが言うような「煮え切らなさ」(注8)。

刺:「スキ」のところが揺るがないのは唯一、兼田センセイくらいなもんだしね。やっぱりあのひともその点ではオトナなのかなー。

比:うーん、高校生で読んだ時はオトナに感じたと思う。余裕がありすぎるからね、キクチナナコのような「美少女」に言い寄られてさえ。。。結婚してコドモ産むっていうある種の決定的な出来事も、印象に残る。まあ、その先に千暁パパママのような揺り返しが起こらないとは限らないけど、そう思わせないのが兼田センセイ

刺:宙ぶらりんなひとたちとはどこかちがって見えるのは事実。まあ兼田センセイは『放浪息子』にも登場するし。

比:だね。話変わるけど、そういえば、思わせぶりなまま全く触れられることなく終わったフレーズもけっこうあるよね。「色に たとえて言うなら」のくだり(注9)での「赤が ない」とか、「彼の人生に 赤が加わるのは これから」とか。まあこのあたりは行き当たりばったりのインプロヴィゼーションでやってるだろうから、なんとも言えないけど。。。

刺:モノローグやセリフのなかに登場する印象的なコトバの数々もまた、コダマの返ってこない残響(エコー)として……。
伏線として機能しないノイズの多さは、作家みずから言及してますね。「無駄なセリフを入れたいというか。別になくてもいいようなノイズを。自分が映画見ててもそういうのが好きです。後で伏線になるわけでもないセリフがあったりするようなのが(注10)。読み終わってみればただの雑音だとわかるモノも、読んでいるうちは「これが伏線なんじゃないか」と身構えてしまうからこそ「残響」であり「ノイズ」でもあるという。

比:ノイズは積極的な誤読という面もあるだろうからね。雑音から何を読み取るか、というのが描き手にも委ねられるわけか。

刺:あえて伏線として機能するシーンを持ってこようか。
むーちゃんが安達とセックスしたあとで「神様 もうそろそろバチがあたってもいい頃です」【図8】と懺悔するシーンがあって、そこはだいぶあとの「でも バチが当たったんだよなぁ」【図9】と呼応していて。


【図8】 3巻、vol.25、p.99


【図9】 5巻、vol.44、p.109


比:こういうケースもあった。ある雑誌で千暁が美少年として取り上げられると、クラスの女子が手の平を返したようにちやほやしだしたことに違和感を覚える中嶋くるみのモノローグ、「――女の子って」(注11)。それと対応して響き合うのが同じく10話の、中嶋くるみが泣いた理由がわからない千暁のモノローグで「女って…………絶対 ヘンだ」(注12)。

刺:そういう対応があるから身構えてしまう。

比:モノローグに関して言えば、たまに発言者のわからない言葉がポンと出ることがなかった? たとえばAとBのモノローグが交互に、つまり視点を並行して語られていくんだけど、どちらの言葉ともとれる一文が挿まれるとき。これは残響というか、アンサンブルというか発言者がわからないと言ったけど、むしろどちらもが発言者であるわけだ。
右から左に読むという点で書物は音楽と同じ時間芸術だよね。A、Bのモノローグが、ページをめくるごとに周波数が近くなっていって、キャラクターどうしが共鳴する。。。いや、ちょっと比喩が過ぎるな。だってこれはすごくマンガ的な快楽だと思ったんだよ。人物像と相互補完するかたちのモノローグが、しだいに浮遊して溶け合ってひとつになることで、逆にフィードバックするように人物の共振をうらづけたわけだからね。。。どうも、寝不足だから、ふわふわした言い方しかできないけど。。。あ、これはマンガ以外で感じたことがない運動だな、と思った。

刺:蝶番(ちょうつがい)としてのヴォイスは志村サンのお家芸じゃない? カットのつなぎっていうか、場面や視点の切り替えには尋常ならざるこだわりがあるよね。スムースな連接であると同時に、モノローグの帰属先が判然としないことによって浮遊感が生まれるとしたら、それはモノローグの「声」が文字であることの特権と言って良いはず

比:そうそう。同時にその文字が、であるキャラと作用し合うところにマンガ可能性がある。


【図10】 3巻、vol.22、p.32
 刺:キャラやモノローグに限った話じゃないけど、可能性だけがさきにあって、方向と選択づけはある程度委ねられている……。だからこそ、誤読だという自覚がありながらもとってしまいたくなる選択があって……。ヤメヤメ、さっきから抽象的にすぎるや。

比:具体的に手法面を見ていくということだったね。志村サンの作品を論じるうえでよく言われがちな繰り返しやループの手法については。

刺:繰り返しやループの手法についても、雑音のなかに置かれるからこそ、反復のイメージが際立つのではないでしょうか。かつてのコトバや振る舞いのいくつかが、取り返しのつかない濃度でフラッシュバックするか変奏されるとすれば、そこにスポットライトがあたるのは当たり前で。
むーちゃんのことを忘れられない安達、兼田センセイのことを諦めきれないキクチナナコ、キクチナナコと千暁、千暁と安達……。ホントは二者の関係にとどまらない玉突き事故愛群像劇なんだけど、わかりやすいようにあえて焦点を絞れば、それぞれのあいだで同じようなイベントや失敗が(ヴァリエーションとして)繰り返されていく。それは当事者であるところのキャラクターにしてみれば堂々巡りのループにすぎないのかもしれないけど、具体をみていけば明らかなように、そこにはたしかに差異が生じていて。

比:さっき言ってたことを繰り返してるね(笑)

刺:スミマセン……。でもめちゃくちゃ大事なところだから何度でも言うよ。たとえば安達と千暁の場合。事実上フラれたかたちの千暁が安達に暴言を吐いたあとの挨拶【図10】と、むーちゃんと別れた安達が千暁と急接近、セックスしかけたところでむーちゃんを思い出して……という事件があったあとの挨拶【図11】。

比:「今まで通り」の態度をとるのは変わりないけど……
【図11】 6巻、vol.50、p.52

刺:モノローグの饒舌さもなく笑顔なだけに、カラっとしているというか。ドロドロモヤモヤしてたものがカラアゲになっちゃった。

比:あっ、野裕子。。。? なんか話がブンブン別のところに飛びそうになるけれども。うして見比べると、千暁側も安達側も、それこそやや大人びたふるまいに変わっているのがわかる。動から静、雑から整。

刺:あるいは千暁とキクチナナコのケース。エロガキになって千暁を誘うキクチさんは、「家出」さきの京都では自分からタンマをかけるワケだけど【図12】、父親の結婚式のときは外部から邪魔が入って【図13】【図14】。結果的にヤらないことには変わりないとしても、自分からやめるのとそうでないのとではぜんぜんちがうよね。


【図12】 3巻、vol.27、p.165


【図13】  6巻、vol.55、pp.162-163

【図14】 6巻、vol.55、pp.164-165


比:6巻のここは、荒い息づかいが伝わる志村貴子の面目躍如って感じのシーンですね。わたしはこの流れならヤるだろう、と思いながら読んで予想は外れたわけだけど、なぜそう思ったかと言うとこのシーンで妙に二人が大人に見えたから。絵柄の変化を単純に肉体的成長には結びつけかねるけど、黒髪であることで兼田センセイの影がちらついていたのかもしれないな。まあ、それでもヤらないところに『敷居の住人』らしさがあるというか。決定的かに見せかけてハズす。しかしちょっと前に進んでいる。一貫してるね。

細部の魅力、描き方の変化


刺:肩ひじ張って話すのにも疲れた。リラックスして話せるようなやつにしよう。

比:うーん、そうだな。。。なんというかこれはわたしだけかもしれないけど、一見するとどうでも良いような細部に惹きつけられてしまうのよね。千暁の腕時計が明らかに逆向きだったり、働き出してから千暁パパの服がピコからディーゼルに変わっていたり……。さっきの京都のシーンでは煙草が映るんだけど、銘柄は描かないのかよ、と思った。

刺:千暁がPizza Of DeathレーベルのTシャツ着てたりね。「どうでも良いような細部に惹かれてしまう」体験はとくべつ魅力的だと思うな。偶然に写り込んでしまったモノに惹かれるというのは映画や写真にありがちなことだけど、マンガだと描き込まれた愛のある細部やヘンなコマを見つけるだけで嬉しくなってしまう。

比:そう、描き手が描こうとしない限り、現れないわけだから。モブキャラのウエイトレスがやたらでっかくフォーカスされてて「誰だよお前!」みたいな。いや、馬鹿にしてるんじゃなくて、本当にそういうのが楽しいんだよね。

刺:あれは笑ったなー。とくに序盤はコマ構成も安定してなくて、ハチャメチャなトーン使用が目立つし、装飾過多というか、ツッコミを入れたくなるような場面も多い。そのハチャメチャぶりも嫌いじゃないけども。

比:ハチャメチャなトーン使用だったり、不安定なコマ割りだったり、そういうモノが思春期のリビドーと結びつくのは理解できるからね。

刺:そうね。コマ構成やモノローグの洗練を描き手の「成長」と結びつけるのは安易すぎてアレだけど。絵にしても、のちに『青い花』や『放浪息子』で見られるような「絵は口ほどにモノを言う」といった種類の絵ではないよね。

比:絵で語るようなシーンは『敷居の住人』ではあんまり。。。『放浪息子』ならうろ覚えだけど、安那顔がどアップになってて描かれて、そのコマだけで情感が伝わるような必殺のコマがあった。『敷居の住人』にも無言の顔は多いけど、それはテンポであって「語る」顔ではないね。

刺:途中から丸っこくてやわらかい線を導入するのも、「絵で語る」境地にいたるための選択なのかと、そんなふうに穿ったみかたもできるかもね。『放浪息子』には、女の子みたいな男の子が自ら「男性」であることを自覚せざるを得ない瞬間があるし、そのゆるやかな「成長」を描くにはやっぱり線のゆとりが不可欠で。

比:うん成長にともなう性差テーマとなっている以上、肉体の描き方に賭けられてると言っても過言じゃない。

刺:『青い花』は線の強弱だったり、大ゴマの多用だったりというところで絵にメリハリがあって、魅せる場面の絵が素晴らしい。『敷居の住人』の頃から垣間見えた女の子の長髪へのこだわりも、その描写がここへきてエロスの域にまで昇華されている印象がある。
そういう意味では、話法や描写のスタイルに自覚的な作家だと思うので、近作の読み比べをしてみても面白いんじゃないでしょうか。

比:星新一のトリビュートにも描いてたよね。読んでないけど、他人の作品をどう描くのか読んでみると面白いかもしれない。


製作


刺:そういやぜんぜん関係ないけど、箱根でキクチナナコが千暁パパの布団にもぐりこもうとするじゃない?

比:うん。

刺:あのときの「寒いから」ってセリフ、Brigitte Fontaineが「世界は寒い」と歌うときの寒さだよね。

比:いやーまさに。Comme à la radio、世界は寒すぎるから火をつける……。
ん、待てよ。。。キクチナナコと「ラジオのように」? ラジオといえばレディオヘッド、レディオヘッドといえばジョニー・グリーンウッド、グリーンはミドリ、ミドリは千暁ということはつまり。。。

刺:よくそういうの思いつくなー。そういう瞬発力はホントに羨ましい。点を線で結んでかってに星座をつくる……ちょっとムリがあるかもしれないけど、その実践として。

比:この星座にそえばキクチナナコとミドリは結ばれる運命にあったというわけだね、はははは。いや、でも尾崎翠からベケットに迂回したんだから、じゅうぶん長い旅だったよ。あえて言わなかったのかもしれないけど、だいたいがして読み方が「尾崎ミドリ」でしょ? で、ベケットは原語で綴るとBeckett、もしくはBecquetで、いずれにしろアルファベットが7個あるから「キクチ7個」ってことさ。。。うん、これは調子に乗り過ぎたな。。。

刺:第「七」官界彷徨の旅にここで別れを告げて……。
ヨコのつながりなら「登場人物が教師のことを好きになってしまうマンガ」10選とか、「未成年が飲酒喫煙するマンガ」10選とかね。まあ後者はマズいだろうけどさ。前者だったら、このまえ貸してもらった耕野裕子の『CLEAR』は入るね。あとはくらもちふさこの『海の天辺』。もう必読リストとかそういうのいいから、各自プレイリストやアンソロジーをつくってきかせてくれよ!

くらもちふさこのソレは読んだことないから、今度貸してよ。あとは、沙村広明『無限の住人』、kashimir『○本の住人』といった「住人マンガ」10選とかね。萩尾望都の『住人いる!』は。。。11人か、ひとり少ないな。
高校のころは『敷居の住人』をはじめとして、モラトリアムマンガに入れあげてたから、そういうまとめかたも考えちゃうな。そんなジャンルがあるか知らないけど(笑)。ひぐちアサ『ヤサシイワタシ』とか、木尾士目『五年生』、TAGRO『マフィアとルアー』、亀井薄雪『桃栗三年』なんかは、けだるげな感じが『敷居の住人』に負けず劣らずの良作なので、ここで羅列しときます。他にオススメがあったら教えてね、と、ネットの海に残響を投げつつ、、、オーイ! オーイ! 、、、静かだ。



注1)『敷居の住人』新装版3巻、エンターブレイン、2009年、vol.26pp.138-139
以下、『敷居の住人』からの引用は全て新装版(1~6巻、2009年)のものとする
注2)尾崎翠『第七官界彷徨』、河出書房、2009年、p.28
注3)「Walking Rhythm」『FADER』vol.11、HEADZ、2006年、pp.20-21
注4)1巻、vol.10p.241
注5)2巻、vol.20
注6)5巻、vol.46p.147
注7)サミュエル・ベケット『いざ最悪の方へ』長島確訳、書肆山田、1999年、p.12
注8)「志村貴子インタビュー」『季刊S』創刊号、飛鳥新社、2003年、p.27
注9)2巻、vol.18pp.192-194
10)注8に同じ
11)1巻、vol.10p.223
12)同、p.242



Bonus Track


比:せっかくだから、いま話に出てきたBrigitte Fontaine & Art Ensemble of Chicagoの名曲、『Comme à la radio』をカバーしてみよう。さいわい現代はスマホで録音できる時代だし。そうだな、座談会を記念して、アート・アンサンブル・オブ・タカコとでも銘打って。。。最後まで駄洒落だな。まあ、頑張って音を出してみようよ。恨みっこなしの一発録音。

刺:後手後手のゴテゴテでも構わない、とにかくやってみないことにははじまらないからね……「Comme à la radio×敷居の住人」ってカンジで、さあ。