Sunday, September 13, 2015

『からん』供養のためのメモランダム


 いやっ、どーも。このたび、マンガについて何か書こうってんですけど、あまりしゃちこばった文章でも読んでてツライいだろうと思ってたところに、たまたま聴いてたラジオの映画評論がスンナリ頭に入ってきたから「これだ!」と閃いた。口で話す言葉ならやさしく読めるでしょう。で、自分がしゃべってる声を録音して、それを自分で文字に打ち直してやろうと思ったんだけど、部屋でひとり自分の声を再生して聴いていると、なぜかどんどん暗い気持ちになってくる。小学生のころに友だちを傷つけたような思い出が蘇ったりして。。。嫌になってやめちゃった。録音された自分の声っていうのは、どうもブルーな気にさせるね。風呂場の反響なんか、聴いてて気持ちがいいのに。。。
 で、思ったんだけど、いわゆる文体っていうのは、声に似てるんじゃないか、と。声、肉声は、その人と切っても切れないでしょう。言い換えると、声を聴くと何となく、その人の風貌とか、歳とか、性格とかを想像できるでしょう。文章を書くときの文体ってのも、そういう書いてる人にひもづく何かを示してるんじゃないかな。文書作成ソフトみたいな文体で書かれたものは、情報をくみとるためには平易でいいかもしれないけど、その人が全然見えてこないよね。まあ声と違って文体はいくらでも改変可能。だからあえて語る対象によって変えることが技巧一般として必要とされるんだろうけど。
 いや、この無駄話はね、アップするつもりの記事を書き終わってから書いてんだよ。あんまり考え過ぎても文章ってノらないから、どーも自分が書いたもの、というよりリズムに納得いかなくって、こういう言い訳めいたことを書いちゃうんだよね。これも録音した声と同じようなものでさ、自分で自分を省みると気味が悪いの。わかる? ともかく自分じゃどーだかわからないから、ま、そろそろ読んで下さい。不幸な結末を迎えてしまったあるマンガの話。。。
 
※画像はAmazonへリンクします。


 おとずれなかった「終わり」にいくらでも思いを馳せられる


 哀しい言葉「打ち切り」。それはどことなく響きが「首切り」に似ている。その意味するものが殺人であれ失職であれ、一瞬にして未来の可能性が無へと還る、理不尽なやるせなさに変わりはない。メラメラとあがる怨念の炎が眼に浮かぶようじゃないか?
 だから打ち切りと呼ばれる作品は、基本的に面白いほうがいい。面白くなくて当然のように読者に無視され早々に幕を閉じたマンガは、打ち切りでもなんでもなく、初めから死んでいただけ。面白さが伝わらずに殺された物語、著者の心労、事故、出版社の事情、そんな不幸な引金によって息の絶えた作品こそ打ち切りと呼ぶにふさわしい。
 木村紺の『からん』は、打ち切りとなったマンガたちが眠る墓場(私はその場所を「打切塚」と呼んでいます。丘のようでもあり盆地のようでもある呪われた霊場。樹々がじめじめと根を這わし、虫や鳥の音が響くなかで、成仏されぬ無縁仏の魂が束となって光っています。禍々しい歴史のユーウツ。供養していきたいものです)において、その頓挫のハデさ加減において、なかなかのパワーを持っている。
 これから試そうとしているのは、『からん』が何を書こうとしていたかを私たちに投げ出された作品のなかから読み解き、そのマンガとしての水準を評価したうえで(打ち切りの名にかなう面白い作品であったか?)、なぜ道なかばで終わってしまったのかを通夜ぶるまいの席のように語りあってみよう、ということだ。ただし私じしんが完全に木村紺のファンで、理性よりも直観的なところで氏の作品に惚れていることは隠せないと思う。いちファンが打切塚におもむき花束を供え、愛していた作品の冥福を祈るいち場面として眺めてもらいたい。
 当時、私は毎月アフタヌーンを買って『からん』を読んでいた。連載が終わってほどなく定期購読をやめたのだった。
 

 「才能」にケリをつけるために、その構図


 物語は「柔道」と「京都」2つのキーワードで整理できる。うん、ここから軽いあらすじをまじえながら『からん』の要素を分析してみよう。ネタバレ? そもそも最初から、何億文字の言葉をついやしても原典そのものに成り代ることはできない。もしこの時点で『からん』に興味を持った人が直接本屋で求めてくれるならこの先は読まなくていいし、以下のあらすじを読んだからといって、現ブツを読む体験が損なわれることはない。
 
 高瀬雅は京都の由緒あるお嬢様学校にめでたく合格、柔道部に入部する。同じクラスの九条京も高瀬に誘われて柔道部を見学し、衝撃を受けて入部。
 高瀬と九条は「才能」という軸を中心にして、対照的な位置にいるのがポイントだ。また、このマンガのテーマというか着眼点は一貫して「才能」にあてられていた、ということを明らかにしておきたい。高瀬は実力者だが「才能などなく」、実力の差は「畳を舐めヘドを吐いた回数の差」であると柔道部主将の萌の口から語られる。一方で九条は高校から柔道を始めたズブの素人ながら、最終的にはライバル的存在の黒帯・金春せんぷぁい(原文ママ)に一本勝ちするという、言ってしまえばマンガ風な劇的成長を遂げることになる。
 九条は幼少のころから体操科目で天才的な運動神経を発揮していた(このセンスを柔道にも活かして勝利をつかむ)。さらに一度見たものは静止画として忘れない瞬間像記憶という体質を持ったビックリ人間であることも明かされる。
 こういう度外れな人物像はマンガでは珍しくないものの、『からん』は単純なキャラクター造形としてでなく、もう一歩それを突き詰めて才能の諸刃の光に焦点をあてる。ここでようやくもうひとつ「京都」に関わる問題が重要となってくる。
 実は九条は舞妓の家系に生まれたため、ほんらい高校など行かずに舞妓修行に打ち込まねばならない身であった。特例的に通学と修行を両立しているものの、舞妓の師匠はいい顔をしない。さらに九条の家庭事情はそれだけではなさそうだ。勝利にこだわる理由について「うちは特別なんや」と、九条は言う。その時の顔は、才能を自負する強者の奢りとは無縁な、与えられた命令をこなすよう躾けられた幼女の切なさである。結局、九条の謎は(他のたくさんの謎とともに)宙吊りにされたまま打ち切られてしまうわけだが。。。
 それは置いといて、つまりここにおいて「才能」はやや敷衍して「先天的に背負ったもの」すべての話に繋げられる。九条だけでなく、クラスメートや柔道部員の生徒たち全員には、産まれた家、住んでいる場所等、京都という土地に根付いた家のしがらみを負わされる。子は親が何気なく口にする差別意識を学んで育ち、学校が社会の縮図として機能しだす。ちなみに九条が勝利した金春も差別的なまなざしを受ける場所に住んでいるのだ。
 舞台に京都を選んだところが、木村紺一流の上手さと言えるだろう。伝統の美学を担保するものは、えてして旧時代的な価値観である。一概に良いとも悪いとも言えない微妙な問題だからこそ、テーマとして重みをもつ。美しいものの裏にかならずある醜い部分。もしここにフタを閉じていたなら、単にちょっと解説が詳しいスポーツマンガに過ぎなかっただろう。キャラクターと一口に言っても、記号的な身振りを与えるだけのものから、物語に食い込むエピソードによって人物に「重み」を持たせる造形術まで、ピンキリある。木村紺が後者に成功しているのは疑いない。
 舞妓になることを運命づけられ、さらに人間ばなれした運動神経と記憶力を与えられた九条は「才能」のカリカチュアとして存在する。もう一方には努力と人間関係の構築により、理性的にものごとを動かしてゆく高瀬がいる。高瀬は言う。「私はね/人間の可能性を知りたいの/才能に恵まれた者の到達点!/才能の乏しい者の限界点/そしてこの自分がどこまでゆけるのか」。。。
 松本大洋も言っているように、スポーツにおいて才能は非常にシリアスな問題である(南信長『現代マンガの冒険者たち』を参照せよ)。それを描くマンガも当然。いや、スポーツに限らず、少年誌に多いような「バトルもの」マンガにとっても努力と才能のバランスを間違えれば、読者の没入度を失いかねない。ただただ主人公が万能の限りを尽くすような能天気なドラマに、いまや老若男女に広がってゆくマンガ・フリークたちが満足できなくなるのは自明のことだ。
 そう、「才能」にケリをつけることが、『からん』が明確にさだめていた物語の終着点だった。そのための計画はむしろ抜かりなかった(加えて言えば柔道部主将の萌も、天才的な身体能力で他校から恐れられるスター選手である)。九条は天賦の才によって、奇蹟的な勝利を得た。だが同時に、運命づけられた舞妓の道によって、苦しみも味わわねばならなかったのだ。それが九条に負わされた才能という剣の諸刃だった。九条は才能にオトシマエをつけなければならなかった。
 しかし、マンガは九条が勝利した途端、まったく唐突に終わりを迎えてしまう。興奮の余韻を残し、来るべき未来を放置したまま。まるで打ち切りを揶揄するあのテンプレ、「おれたちの闘いはこれからだ!」その通りに。
 

 群像という果てなき欲望に呑まれた「キモ」


 このマンガが打ち切りだと言う根拠はもうひとつある。ややこしくなるので言及しなかったが、柔道とは別の部分にミステリー仕立ての話が展開されているのだ。舞台となる女子校の理事長は高瀬の叔母で、実は九条と柔道部のキャプテン・萌は理事長が特待生として意図的に入学させた者で、しかも理事長とその土地の前市長には政治的つながりを持っていて、しかもしかも現市長と九条の師匠である舞妓のボスがつながっていて、理事長の部屋には「都をどり」の皿があって、、、と、理事長の大きな策略がこれでもかと暗示されていた。いわば「伏線」として(この言葉はキライなんだけど)示されていたそれらの要素も、ことごとく無駄花と散ってしまった。これが打ち切りでなくて何と呼べばいい。
 どこで進路を誤ったのか。月並みな言い方だが、風呂敷を広げ過ぎたことは否定できない。第一話目から、読者を置いてきぼりにする勢いで登場人物の名前が羅列されていたのを見ても、書こうとしたことがあまりに多すぎたと推測できる。
 ただし、それを「失敗」と言うのは浅はかに過ぎる。木村紺は確かに群像劇の名手なのだから、狙いは間違っていなかっただろう。前作『神戸在住』でもたくさんの人物を魅力たっぷりに描いていた。『からん』でもその手腕は健在で、描かれる人物はみな個性に溢れており、とても読ませる。その意味で木村紺のわざは間違いなく成功しているし、無駄などではなかった。それは著者のエンジンでもあったはずだから。単行本を何巻重ねればいいかわからないが、ここに出てくるあらゆる人物を描き切ったとき、前代未聞の一大青春サーガが出来上がったのだと夢を見ても、オーバーではないだろう。だが結果として、派生的に多くの人物に価値を与えたいという著者の欲望が連載のサイクルを乱し、全員を書き切る前に終わりを迎え(させられ?)てしまったのではないか。

 事情を知らぬ者が好き勝手に言えないものの、アフタヌーンへの失望は大きかった。週刊連載しならいざ知らず、アフタヌーンのようにマンガ好きをターゲットとする月刊誌なら、売上のキモは雑誌よりも単行本のはずだ。それでも打切りになったのは、単行本の売上が思った以上に芳しくなかったのか、著者のほうが書く力を失ってしまったのか(種村有菜の『時空異邦人KYOKO』みたいに。。。)。何にせよ、最終巻の巻末には、著者直筆の文字で物語が「終わった」宣言がしっかりと書かかれている。
 打ち切りだったにせよ、『からん』は面白いマンガだと請け負ってしまうつもりだ。もちろん、いままでただ一種類の雑誌にしか触れてこなかったような読者はマンガに求める興奮の質が変わるだろうが、極端に好みを分けるような作品ではない。とくに入念な取材とスポーツ科学にもとづいた記述は、そうそう他のマンガでお目にかかれるものではない。
 ちなみに、木村紺はこの連載終了の後、再びアフタヌーン誌上で『マイボーイ』の連載を始めた。潰れかけたボクシング・ジムが再興を目指すスポーツマンガで、『からん』と同じく題材となるボクシングの丁寧な解説がされている。また、コメディ要素は強まっており、著者による『巨娘』のギャグセンスがよみがえっている。そういう意味では木村紺のエッセンスがほどよく混ざったマンガと言えるが、『からん』で書ききれなかったことを舞台を変えて書き切る、という狙いは、今までの連載を見る限りないようだ(単行本2巻まで)。

 さあ、ここまでで『からん』の供養になったかどうか知らないが、ひとまず自分の『からん』病にケリをつけられたことにしよう。これだけ言っておいてなんだけれど、就職活動をしていた時にある出版社の面接官から「『からん』、面白いかなあ?」と言われたのは、単純なハナシ、もう一度このマンガについて考える契機になった。発言は面接官なりの作戦だったにしろ、その人もぱらぱらとめくったことくらいはあるようだった。当然『からん』より面白いマンガなんて、いくつも浮かぶ。しかし打ち切りという問題、連載という問題を考えるときに大きな判断材料となるであろう点で、誰しもの記憶に残る作品かもしれない。
 いつか、散りばめられた情報をもとに『からん』のあるべき終わり方を想像する『謎解き からん』をやってみたいと考えている。理事長は言っていたのだ。「ヒントは与えすぎるくらい与えてある」と。とんでもなく面倒なことになるだろうけれども、その時はよろしく。

No comments:

Post a Comment